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急行「だいせん」に思いを馳せる

2004年10月15日発をもって、45年に渡る「急行列車」としての歴史を閉じた急行「だいせん」。私の個人的思いを、2004年8月11日大阪発の「最終乗車」の時の画像と、10月15日大阪最終発の時の画像で、ぶつぶつ語ってみます。


郷里が「福知山」ということで、子供の頃から帰省にはよくこの列車を使いました。昼行の「1号」は大阪発9:50。福知山到着は11:57。この時刻は古くはまだ福知山線経由だった頃の急行「出雲」だったようです。また、急行「だいせん」が、赤穂線経由の急行から移って来た昭和40年代前半から、数分の前後はあるものの、昭和61年の廃止まで、ほとんど変わらなかったそうです。朝飯を食べて堺の実家を出るのがだいたい朝8時半頃。大阪駅に着いて乗車して、福知山に着くのが昼前。福知山駅裏のあった(現在は再開発の並に飲まれ、跡形もなし)祖父母の家まで歩いて約15分。着いてすぐに昼飯、と言ったパターンが私の実家ではよくありました。
▲最後まで「白地に赤文字」だった「急行」の種別表示(2004/08/11 大阪駅)。
なぜか子供の頃の私は、「だいせん」には最後部の11号車に乗車するのが好きでした。窓を開けて、大阪駅を発車して直ぐの右カーブ、尼崎駅を発車してしばらく行った所の、東海道本線をオーバークロス部分、谷川駅を発車してしばらく進んだ所の右カーブ。これらのカーブを曲がる時に窓を開けて、11両編成がカーブを曲がって行くシーンが大好きでした。廃止間際の2両編成では、窓も開かず、それもかないませんDした。
▲正面から。深夜でも「笑顔」(2004/08/12 豊岡駅)

「だいせん1号」は、現在の急行では考えられない11両編成。前5両は浜田駅行き、次の4両は出雲市駅で切り離して今はなき大社駅行き、最後部2両は豊岡行き、しかも浜田行きと大社行にはそれぞれグリーン車が組み込まれていると言う贅沢な編成でした。

その当時(私が小学校〜中学校の頃)、夜行の「だいせん」はB寝台車にグリーン車(後に廃止)、指定席車に自由席車、出雲市駅方には郵便車に荷物車と、合計11両近くに及んだバラエティにとんだ編成でした。途中、夜行は特急列車のお下がりに変更されたものの、電車がひっきりなしに出入りする他のホームとは趣を異にした「だいせん」発車前の大阪駅2番ホームはある種、「異質な空間」であり、「望郷の念」にかられる時間でした。

▲独特のサイドビュー(2004/08/11 大阪駅)

その「だいせん」が大きく方向転換を迫られたのが昭和61年11月の福知山線全線電化。線内の急行はすべて特急「北近畿」という、なんとも味気ない列車になってしまい、この頃は既に帰省は父の運転するクルマになってしまっていました。

夜行の方は辛うじて残りましたが、寝台特急列車のお下がりの車両に変更され、編成もB寝台車3両に座席車2両の、わずか5両に短縮されてしまいました。

その後、平成2年に大阪駅から浜坂駅までの特急「エーデル北近畿」という特急列車が、「北近畿」に紛れるように誕生しました。「だいせん」廃止まで使われていた、キハ65の800番台車両はこの時誕生しています。

▲デッキ横の「急行」表示ももうぼろぼろ。(2004/08/11 大阪駅)

その数年後、夜行「だいせん」は、B寝台車のみが特急「あかつき」等と同様のモノに変更されました。しかし、寝台車の利用率低下は著しく、平成11年に、特急「エーデル北近畿」廃止で溢れた車両が転用され、ついに寝台車は廃止されてしまいました。この時点である程度先は見えていたのかも知れません。

そしてついに平成16年10月15日、廃止の日を迎えます。廃止直前には、かなり以前に廃止された元「エーデル鳥取」用車両(キハ65 700番台)等を総動員して運転されていたようです。しかしそれは、「だいせん」最後の輝きでした。

▲行き先案内もレトロなまま。(2004/08/11 大阪駅)

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